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また、別の曲は、とある静かなBAR。
「オシャレ」という表現を使うと同時に、オシャレとは対極の位置に堕ちてしまうが、
わたしの感じる、ステキな(ああ、また、「ステキ」と入力すると同時に、対極の「ダサダサ」に陥る)
なんと表現していいのか、その素養がないので、表現しようがないのだが、
なにしろ、洗練された(ああ、また、こんな表現???がっかり???)
そういう軽妙なフィーリング(またまた、こういう表現???。エンドレス?スパイラル。だれか、ヘルプ?ミー)

踊るとかではなく、もっと、軽い、落ち着いた、
こころが、ふっと、わたしの知らない、どこか別世界に入り込んだような、
でも、まったく知らないわけでもないような、
どこかにあったけれど、潜在的にあったものの眠っていただけで
たまたま、いままで気付かなかったような、
憧れの世界であるような、
でも、いままで、ダサダサの自分には接点がない、縁がないとハナからあきらめていて、それで、興味もなかったけれど、

自分が、ひょっとすると、合っているかも知れないような、
対象物?自体は、不動だが、自分が変化したことにより、新しい世界が開け、
その憧れは、遠いところにあるのではなく、その世界に自分が近づき、適応、フィットしていることに気付き、
嬉しいような、くすぐったいような、そんな気分だ。

音楽の好みが変わるなんて、今まで、ほとんどないことであった。
というより、音楽自体、べつに、どうでもよかったのだ。
受け売りや、流行っているから、とか、話題になっているから、とか、そういう、受身のチョイスでしかなかった。
自分から、音楽に寄り添っていくことはなかったと思う。

ただ、ジャンルが、ジャズなのか、クラシックなのか、まだ、流動的ではある。
どっちにしても、いままで、興味のなかった世界、分野が、自分から能動的な揺さぶりが生じ、
好みが変わる、ということ、
こういう自分の変化をとても、面白く感じる。

音楽だけでなく、芸術や、美?全般にもいえる。
美を追求するのは、わたしにとって、
永遠の夢の世界に浸ることができる、架け橋をゆっくりゆっくり上ることである。





純と愛。

もうあと数回で終わりだが、どうも、まじめに見る気がしない。
いつか莊陳有らそうなったのだろう。
昨日なんか、テレビをつけているだけで、見ているのは、パソコンモニター。
背中で、耳だけで聞いていた。

なんだか、途中から、不自然になってきて、無理やりっぽいストーリー展開に、すっかり嫌気がさしてきた。
最初の、大阪市内のホテル勤務のときは、面白かったのだが。
愛クンのお母さんのキャラクター設定、わざとらしさ、変人ぶりには、ついていけない。
で、興味が、さささーっと、引いていったわけである。

いつもは、朝は8時から15分間だけテレビをつけるだけだが、
今日は、その後の「あさイチ」、ぽっこりお腹をひっこっめる運動と、くびれをつくる運動の再放送をちょっと見た。
ドローイングという、腹式呼吸をしながら腹筋を鍛える、あの運動は、
日常生活のなかで、いつでも、どこでもできそうだ。