福岡に居た。長野ではなかった。長崎でもなかった。僕は今、福岡に居た。長野から戻り、長崎で7カ月無収入の日々を送った後、自分は福岡の脳外科の病院の痴呆性老人病棟で働くことになった。福岡大学の鍼の先生が捜してくれた。そこで今、鍼をしながら精神科の患者をときどき診ている。院長はとてもいい人で、本当なら首になるはずの僕を働かせてくれている。給料は安いけど、税金や厚生年金を払っての給料なので長野のときよりも良いかもしれない。まだ結婚していない。もう35になっている。一人で新築のアパートに暮らしている。テレビは無いし、冷蔵庫も洗濯機もない。でも、冷房はもう2つ入れた。新築で、病院の近くで、まだ少ししか入居していない。そして僕の病気はやはりまだそのままだ。

 クスリを飲んだり、自分で自分の体に鍼をしたりしてなんとか過ごしている。そしてそのクスリがもう底を突きかけていた。そのため2週間前から福岡大学のすぐそばの小さな内科の病院からクスリを貰い始めた。

 どん底でも僕は負けない、中2の頃の自分を思い起こそうと努力している。中2の頃の自分に戻れば自分は負けない。しかしそれはとても激しい努力の日々になる。今の自分にできるか、倒れるかもしれない。中2の頃は元気だったからできたのだと思う。それにあの頃は心がとても純粋だった。今、自分は大人になっている。もうあの頃の自分に戻れるか、ただ努力して目指すしかないと思う。

長野を去る数日前、夜、ローソンで出会った美しい女性、それがいつも見ている新館3階の看護婦さんであることに気付かず、喋り掛けることができず、僕は数日後、長崎へと帰って行きました。あのとき喋っていたら僕の人生は変わっていました。

 また、8ヶ月後、長野に戻ったとき、長野の創価学会の長から「長野にずっと居なさい」と言われたにもかかわらず、九州へ去っていった自分。僕はあのとき長野にずっと居たかった。ただ、前の日、日曜日、『凧になろう、風に吹かれる凧になろう』と決断をしました。そして日曜日の夜、福岡の病院から007が来て自分を九州へと連れ帰ったのでした。


 8月7日の夜に僕は長崎に逃げて帰った。その何日か前の日のことだった。僕は長崎の実家に夜、荷物を送っていた。夜でなければ怪しまれるのでいつも夜クルマに乗せてコンビニエンスストアへ向かっていた。その夜に出会った。

 僕はそのとき荷物をレジーに出して冷房の吹き出し口を見つけていたのでそこに立っていた。

 もう何日こういう夜を過ごしていただろう。長崎の実家へのこの荷物送りはピークを過ぎていたと思う。初めの頃は1週間に1回ぐらい。次は3日に1回ぐらい。次は毎日のように。

 実家への荷物送りは秘密裏のうちに行わなければならなかった。またこのコンビニエンスストアは宅急便のように早くはないが半額もしない引っ越し便を扱っていた。そのためアパートから比較的離れたこのコンビニエンスストアばかりを使っていた。でも、アパートから真っ直ぐの道をクルマでひた走るだけのいつも通った。夜、テンプレートを填めて何度この道を往復しただろう。ボクシングをするスポーツセンターが休みの日には。テンプレートを填めて走って片道5分程度の短い距離だった。でも、狭い道だった。